Saunology -Studies on Sauna

Saunology -Studies on Sauna-

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風呂のルールの歴史

 温浴施設はいろんな人が利用します。個々のマナーも必要ですが、お互いが気持ちよく利用できるように、多くの温浴施設には店側からのルールやマナーの掲示があったりします。そして、こうした浴場でのルールにも長い歴史があるようです。今回は、浴場ルールの歴史についてまとめてみます。

マナー

(画像出典:癒しの温泉 水春HP)

 

鎌倉・室町時代の寺院浴堂のルール

 中世、鎌倉時代や室町時代の資料からは、寺院の浴堂の様子がうかがえます。「サウナと歴史 日本の蒸気浴の歴史~古代~」で見たように、寺院には古くから浴堂が造られていました。奈良時代の寺院の浴堂にどういう風呂があったのかについて、正確なことはわかっていませんが、形式は蒸気浴、つまり蒸し風呂だったと考えられています。寺にある物の数を記録した「資財帳」などからも、おそらく蒸気浴風呂だったのだろうということがわかります。「資材帳」からは「温室」、つまり風呂のためにどういう道具を揃えていたか、という情報がわかります。

(画像出典:法隆寺資財帳 | 国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 寺院の温室は、沐浴をする場でありながら大伽藍の一堂舎であったため、他の堂舎と同様に壇上には須菩薩などが安置されていたそうです*1

須菩薩

(画像出典:須菩提(興福寺) | 仏教ウェブ講座)

 

また、温室管理を担当する僧侶も配置されていたといいます。この管理担当の僧侶は、「温室維那」もしくは「湯維那」と呼ばれていました*2。「維那」は事務職を担当する僧のことで、温室担当で「温室維那」「湯維那」というわけです。この「温室維那」「湯維那」は、小僧や寺男に指示を出して風呂を沸かさせたり、入浴の時間を鐘で知らせたりする浴室の管理者だったといいます*3。そして、温室に入るときにはこの「温室維那」「湯維那」に従うというのが作法だったそうです。

温室での入浴作法も亦厳格であり『温室教』等の仏典に示されたとおりで、温室にあっては、その管理責任者というべき温室維那(湯維那)の指令合図に服することとなっている*4

 寺院の風呂に入るときには、温室維那・湯維那の指示に従って入る、ということですね。具体的な入浴の様子も、資料からうかがえます。『公衆浴場史』には、寺院の温室での入浴の様子が次のようにまとめられています。

温室内の洗場がわくと、入浴時刻を板木、鐘鼓の音で一山に報じ、この報を聞いた衆僧は座次によって、各自、湯具としての明衣(浴衣)、手拭、洗粉等を持参しておもむき、まず温室に安置の仏体に合掌し、ついで脱衣して浴衣に着かえて入浴し、その間湯浴の上座には敬意を表し、不潔を禁じ、また声高の談声を戒め、静かに入浴し、口中念仏を唱えることもあるが、聞こえるものはただ身体に流す湯水の静かな音のみである。入浴時間は時刻をはかる香(後世、香時計と呼ぶ)の煙の絶えるを見てあがり、再び衣服を着けて仏像に礼拝して同を辞するという順序である*5

 温室では静かに入浴するのが一つのルールだったようです。そもそも寺院の浴堂は、私語を謹む「三黙堂」の一つだそうです。

浴室は禅宗寺院で本尊を安置する仏殿(金堂)・仏国土に至る三門(山門)・僧侶の居住する庫裏(くり)・僧侶が仏教を講義する法堂(はっとう)・仏道修行に励む禅堂(そうどう)・トイレである東司(とうす)とともに七堂伽藍に数えられています。また浴室は僧堂・東司とともに私語を謹む三黙堂(さんもくどう)に数えられています*6

 寺院の風呂では静かにするというのもルールということですね。また、温室を一般に開放するときには、入る順番も決まっていたようです。例えば、『応永十一年(一四〇四)十一月日美作国豊楽寺条々事』には次のように書かれています。

一、可入湯屋次第事、一番寺僧、次名主、沙汰人、次雑人等*7

 まず寺僧が入り、そのあと村方役の名主、それから沙汰人*8が入浴し、最後にその他一般の人が入るという順番です。

 この資料からもわかるように、寺院の風呂は僧侶だけでなく一般にも開放されていたことが知られています。公衆浴場の元祖、とまで言えるかはわかりませんが、そういう背景もあって、管理する人やルールがきちんと決められていたとのかもしれません。

 

江戸時代の銭湯のルール

 江戸時代の銭湯に関しても、いろいろ資料が残っています。江戸時代の銭湯には、「入浴の定め」が貼り紙として掲示されていたそうです。「店法度書」と呼ばれるこの注意書きは、男女で少し内容が違ったといいます。まず男湯側のものを見てみましょう。

【男湯】

一、御公儀様御法度之儀並時々御触之趣、急度相守可申事

一、火之元大切ニ相可申事

一、男女入込湯御停止之事

一、風烈之節ハ何時ニ不限相仕舞可申事

一、喧嘩口論惣而物騒敷儀堅く御無用之事

一、金銀其外御大切之品御持参ニ而御入湯被下間敷候事

一、御老人並御病後之御方御壱人ニ而御入湯堅く御無用之事

一、悪敷病躰之御方御入浴堅く御断申候事

一、うせもの不存、衣類等御銘々様御用心可被下候事

一、預り物一切不仕候事

右之通御承知之上、御入湯可被下候*9

 一方、女性側はもう少しシンプルです。

【女湯】

一、御公儀様御法度之儀かたく相守可申事

一、火のもと大切に相まもり可申事

一、男女入込湯御停止之事

一、風はげしき節は、何時によらず相仕舞可申候事

一、御年寄並御病後之御かたさま、御ひとりにて御出御無用之事

一、衣るい御めいめい様にて御用心可被下候事

一、うせもの不存、あづかり物一切いたし不申候事

右之通御承知之上、御入湯可被下候*10

 どちらにも「入込湯」は停止ということが書かれています。「入込湯」というのは男女混浴のことです。江戸時代の銭湯は混浴だった、というのはよく聞く話ですが、何度か禁止令が出つつ、なかなかなくならなかったもののようです。

当時の男女混浴は「入込湯」と呼ばれ、何度か禁止令が出されている。(中略)江戸は寛政の改革(1787[天明7]年~1793[寛政5]年)まで男女混浴であり、以後は男女の浴槽が分かれることになる*11

 「入込湯」は停止、つまり男女は別々に入ってね、ということが男女両方の「定め」としてあげられています。その他、火の元を大切に、強風(台風)のときには早めに店を閉めますよ、ご老人や病み上がりの方は一人で入らないでね、衣類の管理気を付けてね、というような内容が共通して書かれています。

 表記・表現の違いの他に、男湯にだけあって女湯にはない項目が3つあります。次の3つです。

一、喧嘩口論惣而物騒敷儀堅く御無用之事

一、金銀其外御大切之品御持参ニ而御入湯被下間敷候事

一、悪敷病躰之御方御入浴堅く御断申候事

 喧嘩や口論、もめごとは男湯の方が多かったのでしょうか。また、女湯では衣類や「うせもの」全般の話は出てきますが、男湯にはそれに加えて「金銀其外」(金銀その他)の話が出てきます。当時女性はあまりこうしたものを持っていなかったのでしょうか。悪い病体の人の入浴を断るというのも、男湯のみに書かれています。この辺りの内容は、女性側には当時不要だったということでしょうか。

 こうした銭湯の「定め」は、このあと長い間、大きく変化がなかったようです。

 

明治時代のルールと法令

 江戸時代の銭湯の「店法度書」の内容は、そのまま明治時代にも引き継がれます。『公衆浴場史』には「江戸時代から銭湯では浴客の目に触れやすい場所に湯銭の値段付けと株仲間の定が掲示してあった(略)明治四三年の定則が載せてある。それは幕末以来すでに半世紀後のものであるが、内容は江戸時代のものと少しも変わりがない」*12とあります。明治43年の銭湯の定則を見てみると、確かに先にあげた江戸時代の「店法度書」と重複する項目が多いことがわかります。

定則

一、御政令ハ勿論、火之元厳重ニ看守可致候事

一、大風之節ハ早仕舞之事

一、男女入込之儀厳禁ニ就キ、其区別ヲ部分シ妄ケ間敷儀無之様可致候事

一、面部ヲ包ミ出入御無用ノ事

一、極老衰者及ビ御病後或ハ見苦シキ御病体之御方、又ハ大酔者の御入浴御断リ申候事

一、喧嘩口論及び高声ヲ発シ放歌等断ジテ御慎ミ神妙ニ御入浴被下度候事

一、御客様衣類其外大切ニ看守可致事

一、金銭其他大切ノ品御所持ニテ御入浴御無用、若シ紛失仕候共、更ニ関係不仕、此旨御断リ申上置候間、御了承之上御入浴被下度候事

一、御衣類其外大切ニ見張候共、込合之節一々注意行届兼、若シ紛失有之候共、其責ニ任ジ不申、此条御了諾之上御入浴相成度、前々以テ御断リ申上候

一、小桶汲置キ之儀御断リ申上候事

一、込合之節、若シ汲置シ為御差支之節ハ遣ヒ可被成事

一、温度之儀ハ都度々々注意可致候事*13

 ほとんどの項目が江戸時代のものと重複しています。桶に汲み置きをしないように、ということや、温度に関する記述が追加されていますが、基本的には同じような内容になっています。そして、こうした内容は「その後大正末年まで一、二度書きかえはあっても、内容はほとんど変わっていない」*14と指摘されています。

 また、明治時代になると、銭湯向けの法的な規則も整備されてきます。1879年(明治12年)の「湯屋取締規則」は、「最初の包括的な法的規制」*15と考えられており、その後これにならって、全国の地方自治体でも法的規制が出されるようになったといいます*16。1879年に東京府(当時)で出された「湯屋取締規則」は全14条で、銭湯を営業するための手続きなどについても書かれています。

第一条 湯屋及ビ藥湯温泉等營業ヲナサントスル者ハ第一号書ニ準拠シ組合取締ノ加印ヲ以テ警視本署ヘ願出テ鑑札を受クベシ*17

 また、営業時間に関する記載もあります。ここでも、強風(台風)の際は早めに閉店するということが書かれています。

第八条 夜間ハ午後十一時限リ入浴ヲ止メ火ノ元ニ注意スベシ但シ烈風ノ節ハ時間ニ拘ハラズ停業スベシ*18

 そして、江戸時代から指摘されている混浴の禁止についても、より厳格になっているといえます。区域を分けて混同を禁止すると明確に書かれています。また、浴室が外から見えないようにするという点についても、詳しく書かれるようになります。

第六条 浴湯ハ必ズ男女ノ區域ヲ設ヶ混同スルヲ禁ス

第七条 浴場并ビニ二階内等外面ヨリ見エザル様簾其他ノモノヲ以テ必ズ見隠シヲ用ヒ及ビ出入口ヲ明ケ置クヘカラズ*19

 この「湯屋取締規則」は1885年(明治18年)に改正され、全23条に増えます。追加された項目の多くは、防火に関するものです。川端美季は、「改正前と引き続き、防火への条項もあるが、改正後は、それらが非常に詳細になったことが注目される。改正後の『湯屋取締規則』は全十四条から全二十三条となり、条項が9つ多くなっているが、そのほとんどが防火に関する事項であった」*20と指摘します。

 また、男女の混浴について、7歳以上は混浴禁止という年齢の基準も追加されます。

第十四条 浴場ハ男女互ニ見透カサヽル様區域ヲ正シクシ七年未満ノモノヽ外男女混淆セシム可カラス*21

 利用者向けのルールの他に、営業する側の規則も次第に整備されていく様子がわかります。

 

 今回は、浴場のルールの歴史について見てみました。多くの人が利用する公共の場では、個々のマナーも問題になります。しかし、マナーは人によって認識や定義が違ってくるので、やはりルールが重要であり、それは昔も今も同じなのかなと思います。なんとなく多くの人にとっての「常識」を基準にするのではなく、「ルール」を基準に、そこから逸脱して初めてマナー違反と考えるべきなのかもしれません。また、ルールを見ると、その時々のトラブルや問題も見えてくるので、いろいろ具体的な例を見てみたいとも思いました。

 

参考文献・資料

川端美季(2006)「『湯屋取締規則』及び『湯屋營業取締規則』に関する考察」、立命館大学大学院先端総合学術研究科、『Core Ethics : コア・エシックス』2巻、pp.59-73

京都ガイド、「東福寺浴室」(最終アクセス日:2021年10月9日)

全国公衆浴場業環境衛生同業組合連合会(1972)『公衆浴場史』、全国公衆浴場業環境衛生同業組合連合会

 

 

*1:全国公衆浴場業環境衛生同業組合連合会、p.28

*2:禅宗では「浴主」「知浴」と呼んだそうです(同上)。

*3:全国公衆浴場業環境衛生同業組合連合会、p.28

*4:同上、p.29

*5:同上pp.29-30

*6:京都ガイド

*7:全国公衆浴場業環境衛生同業組合連合会、p.32

*8:沙汰人は、中世荘園における荘官およびこれに準ずるものまたは中世寺院の役僧や法会・集会の世話人。

*9:全国公衆浴場業環境衛生同業組合連合会、p.83

*10:同上

*11:川端、p.60

*12:全国公衆浴場業環境衛生同業組合連合会、p.174

*13:同上、p.175

*14:同上

*15:川端、p.59

*16:同上、p.61

*17:同上、p.70

*18:同上

*19:同上

*20:同上、p.62

*21:同上、p.71