以前日本の蒸気浴の歴史を概観したように、日本には長い蒸気浴の歴史があります。風呂という言葉はもともと蒸し風呂を指す言葉で、日本には古くから様々な蒸気浴風呂があったことがわかっています。しかし、昔の風呂の細かい実態はわかっていないことが多く、まだまだ謎に包まれています。その謎に迫る一つの鍵は、設計図・平面図です。今回は、昔の風呂の平面図を見てみます。
寺院の風呂
「サウナと歴史 日本の蒸気浴の歴史~中世~」で見たように、絵巻などの絵画資料から、中世の寺の浴堂は蒸し風呂形式が多かったことがわかっています。しかし、奈良時代や平安時代の寺の風呂がどういう形式だったのかはあまりはっきりしていません。「サウナと歴史 日本の蒸気浴の歴史~古代~」では、寺の浴堂で使われた銅釜が蒸気を発生させるための、つまりロウリュ用のものだったのではないかという解釈を紹介しました。寺の浴室について、平面図から改めて考えてみます。
まず、東大寺大湯屋の平面図です。
(画像出典:『日本風俗史講座』)
左が入口、破風作り*1の門のある小さな部屋があり、そこに大きな釜があります。その次の部屋に蒸し風呂形式の設備があり、右の広いところは火焚き場のようです。中桐確太郎は風呂の研究をする中で、寺の浴堂などで用いられる湯をはっていたであろう釜の用途がよくわからないが、これを蒸気を立てるものと解釈すると説明がつくとしています。そして、そう解釈できる理由の一つとしてこの平面図をあげています。中桐はこの平面図の構造から、大きな釜は蒸気を立てるものであったと考えられると言います。
この平面図、改修されてからのものであるそうですが「併しながら新造・修理等の際、多少の變改はあつたにもせよ、當時既に蒸風呂の設備があつたであらうことは、今日に於ては、信じてもよいやうに思はれるのである」*2とあるように、当初から蒸し風呂設備があったと考えられています。
次に、「上醍醐西谷湯屋指図」です。
(画像出典:『中世寺院の姿と暮らし-密教・禅僧・湯屋』)
これは「上醍醐西谷湯屋指図」、京都の醍醐寺の上醍醐西谷にあった風呂の平面図です。書かれたのは1521(永正18)年だとされています。1521年に「四十余年以前のようす」*3を回顧して作られたものなので、これを元に風呂が作られたのではなく、1400年代後半の寺の風呂の様子を後に記録したものということになります。
中央に「湯」の文字があり、周りの丸いものに「カイケ」の文字があります。「カイケ」はお湯を汲む木製の容器「掻笥(かいげ)」だろうと解釈されています*4。隣には「小風呂」の文字があり、「風呂」は基本的に蒸し風呂を意味していたことから考えて、ここで垢を浮かせて、横の湯を掻笥で汲んで身体を洗い流していたのではないかと想像できます。この「湯」も実際どのように使われていたかははっきりしないそうですが、掻笥が沢山描かれているのを見ると、浮かせた垢を洗い流すために溜めていた湯と考えるのが自然な気がします。
この平面図と他の絵画資料等をもとに、2002年には、復元模型も作られました。
(画像出典:『中世寺院の姿と暮らし-密教・禅僧・湯屋』)
平面図から、前室・浴室・焚き場から構成される構造だったことがわかり、模型もそのように作られています。
江戸時代の銭湯
江戸時代の銭湯の平面図も残っています。江戸時代後期に書かれた風俗誌『守貞漫稿』の「沐浴」のところには、大阪と江戸の銭湯の平面図が掲載されています。
(画像出典:『守貞漫稿』)
一つ目、右上に「大坂」の文字があるのが大阪の銭湯、二つ目、右上に「江戸」の文字があるのが江戸の銭湯です。大阪の方を見ると、入口も男女共通で、板の間や洗い場も男女共用、浴槽だけが男女分かれていることがわかります。京都や大阪の銭湯は基本的に混浴でしたが、寛政改革の後は男女別になります。この平面図は寛政改革後のものだそうですが、男女で分けたのは浴槽だけだとわかります。
一方、江戸の銭湯は、入口を入るとすぐに男湯と女湯が分かれているのがわかります。この違いについて花咲一男は「関西の人の方が合理的で、たとえ春情を催したといって、衆人還視の明るい脱衣所や洗い場で女にチョッカイを出す男はあるまい。うす暗い浴槽の中だからこそ、その種の悪戯が出来るので、だから浴槽だけを男女の別をはっきりさせればよいわけで、たしかにこれなら混浴ではないわけである」*5と解説しています。
江戸の銭湯の平面図を見ると、石榴口のついた風呂の横に井戸の文字と「大水槽」の文字があります。洗い場とは別に水槽があったということになります。
治療用の蒸し風呂
最後に、江戸時代に治療用に使われた蒸し風呂の平面図を見てみましょう。
(画像出典:『日本風俗史講座』)
これは江馬蘭斎*6という蘭方医*7が考案した蒸し風呂、「蘭斎蒸湯」の平面図です。「ムシブロ女」「ムシブロ男」と男女それぞれに蒸し風呂が一つずつあることがわかります。この平面図は蘭斎が治療用の蒸し風呂を考案してすぐではなく、四代目に引き継がれてからのもののようで、蘭斎の時代には「男女の区別を立てざりし」*8と男女共用であったことがわかっています。蒸し風呂と水槽はそれぞれにあるのに洗い場は一つなのが気になります。
(画像出典:『日本風俗史講座』)
この蒸し風呂は蘭斎が考案したもので、180年近く受け継がれました。蘭斎はオランダの医学書からヒントを得て、蒸し風呂を梅毒の治療に用いることを考案したとされています*9。この蒸し風呂は、酒樽の蓋を抜いて、互いに逆にして重ねて、樽の下の仮名で湯を沸かして蒸気を樽の中にこもらせるという形です*10。下の樽に扉が付いていて、ここから中に入ります。「樽の高さ九尺五寸にして、口径二尺五寸を算す。立てば三人並びて入り、椅坐すれば一人を容ゝに足る」*11とあるように、立って入れば3人、座って入るなら1人用という大きさです。水に薬草のエッセンスを入れて使うこともあったそうです。
(画像出典:田辺温熱保養所ホームページ)
この蒸し風呂は昭和中期頃までリウマチ・神経痛・皮膚病などの治療に使われたそうです。大垣市で今でも見ることができます。
日本の蒸気浴の歴史は長い、ということはわかっていますが、細かい実態はまだ謎だらけです。今回見てきたような平面図は、昔の日本のサウナについてうかがい知ることのできる重要な鍵だと言えるでしょう。
参考文献
高橋一樹(2004)、「中世寺院のくらしを支えるしくみ-東大寺の湯屋料田を素材として-」、国立歴史民俗博物館編『中世寺院の姿と暮らし-密教・禅僧・湯屋』、山川出版社、pp.97-118
内藤記念くすり博物館(1992)、『くすり博物館だより』第20号
中桐確太郎(1929)「風呂」、長坂金雄編『日本風俗史講座』第十巻、雄山閣
花咲一男(1992)『江戸入浴百姿』、三樹書房
参考資料
『守貞漫稿』、東京堂出版、1974年(国立国会図書館蔵本の複製)