「サウナと歴史 日本の蒸気浴の歴史」で見たように、日本には長い蒸気浴の歴史があります。今回は、古代の蒸気浴について更に詳しく見ていきます。
蒸し風呂の始まり
古代の沐浴について詳細はわかっていませんが、日本人は古代から蒸気浴をしていたようです。まず自然を利用した蒸気浴がありました。
窯風呂
窯の中で生の木枝や葉を燃やして、燃え尽きたら灰をかきだし、床の上に莚(むしろ)を敷いてそこに塩水を打ち、莚の上に横になって発汗する「一種のスチームバス」*1です。窯風呂はいつからとは特定できないようですが、かなり古くからあったらしいと考えられています。
石風呂
窯風呂の中で自然の洞窟を利用したものを「石風呂」と言います。洞窟の内側に、岸壁に沿ってシダや枯れ葉を積み上げて燃やし、燃え尽きた頃に海水に浸した莚を持って入り、灰の上にかぶせてさらに海水をかけて蒸気を立てるという形です*2。
こうした蒸し風呂は、古くから対馬列島から瀬戸内海一体にあったことがわかっていて、蒸気浴形式の風呂が西日本には昔からあったことがわかります。そして、こうした蒸気浴風呂が「西日本の風呂の原型」*3であったと考えられているのです。コリア半島にも汗蒸(ハンジュン)という風呂があったので、その影響だったのではないかと考えられています*4。
八瀬の釜風呂。
(中桐確太郎、「風呂」、『日本風俗史講座』、p.505より)
しかし、自然を利用した蒸し風呂にはいくつか欠点もありました。
①広いと冷めやすい
②狭いと一度に入れる人数が少ない
③近くに海や川がないと冷水を用意しなければいけない
こうした欠点もあり、蒸し風呂を人工的に設備として作るようになっていったと考えられます*5。代表的なものに、寺院の浴堂があります。
寺院の沐浴施設
奈良時代になると人工的な設備としての蒸し風呂が、寺院の浴堂に作られるようになります。もともとは、仏像を浄めるために作られた浴堂ですが、僧侶たちが入浴したり、一般の人たちに解放したり、様々な使い方がされていたと考えられています。
この時代の浴堂の風呂が湯風呂か蒸し風呂か、はっきりとはわからない部分も多いですが、基本的に「日本の仏教寺院に見られる風呂は蒸気浴であった」*6と考えられています。それは、寺院の記録や中世の絵巻物などの絵画表現からも推察できることです。そもそも、昔の日本において今のように身体ごとどっぷり浸かれるほど湯をためるということは「きわめて稀」*7であったと考えられています。
この時代の浴堂の形式についてうかがい知ることができる資料に、東大寺や大安寺の「資財帳」があります。「資財帳」は、寺の縁起や、仏像・仏具・経典の数など、寺にある物の数を記録したものです。ここに記載されている道具の種類や数から、浴堂の風呂でどのような道具をいくつ使っていたかがうかがえます。
重要文化財となっている東大寺の釜。これは鎌倉時代(健久8年、1197年)の年号が刻まれたものだが、こうした釜が奈良時代から使われていたのではないかと推察される。
(産経WESTより)
日本のロウリュの元祖?
「資財帳」には浴堂や浴室を表す「温室」や「温室院」の文字があり、そこにどのくらいの大きさの釜がいくつ使われていたかなど記録されています。
例えば、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』には、「温室」が一つあったこと、鉄釜の他に銅釜が「温室分」とされていたことなどが記録されています。
法隆寺を含め、この時代の浴堂の風呂は釜に湯をはって掛け湯のように使った取り湯式の浴室だったのではないかという説もありますが、銅の釜は蒸気浴用の特別の釜だったのではないか?という指摘もあります。銅釜に焼き石や焼いた陶板を入れて、そこに水をかけ蒸気を発生させる蒸気浴に使っていたのではないかと言うのです*8。鉄の釜だと熱伝導が悪く、ひび割れてしまいますが、銅釜であればこの使い方に耐えるので、鉄釜は湯を入れて使い、銅釜は「蒸気浴用のために特別にあつらえた釜といえるのではないか」*9と言うのです。
あくまでそういう可能性があるということですが、そうであればこれは日本のロウリュの元祖と言えるでしょう。ロウリュといえば本場はフィンランドと思いがちですが、日本人は奈良時代からセルフロウリュをしていた、とも言えるかもしれません。
参考文献
産経WEST、「鎌倉時代、東大寺の僧侶たちが汗を流した浴場『大湯屋』…初公開で判明、内部には鉄釜のような大湯船が」、2017年6月30日(閲覧日:2019年1月3日)
筒井功(2008)『風呂と日本人』、文藝春秋
中桐確太郎(1974)「風呂」、長坂金雄編、『日本風俗史講座』第十巻、雄山閣出版、pp.495-644
山内昶・山内彰(2011)『風呂の文化誌』、文化化学高等研究院出版局
吉田集而(1995)『風呂とエクスタシー 入浴の文化人類学』、平凡社