Saunology -Studies on Sauna

Saunology -Studies on Sauna-

サウナについて調べ、考え、まとめるブログ。知れば知るほど、サウナにはまだまだ謎がある。その謎を解き明かしていくために、サウナについて様々な角度から考察してサウナ理解を深めます。身体で感じるだけでなく、頭で仕組みを考えるとサウナはもっと楽しい。サウナ好きがサウナをもっと知りもっと楽しむために始めたサウナ考察ブログ。 お問合せは下記までどうぞ。 saunology37@gmail.com

銭湯サウナの誕生

 今、私たちはスーパー銭湯、サウナ施設、ジムなどでサウナを楽しんでいますが、銭湯サウナも利用者が多く身近なサウナの一つです。日本の銭湯サウナはどのような経緯でどのように生まれたのでしょうか。今回は、1970年前後の銭湯の経営難の状況と、その打開策としてのサウナ営業についてまとめてみます。1969年にサウナを導入した、初期の銭湯サウナの事例も見ながら、銭湯サウナ誕生の歴史を見てみます。

銭湯サウナ

(画像出典:よりみちでヒトトキ ~470円の至福~京都「サウナの梅湯」はサウナとの距離がぐっと近づく銭湯だった | ヒトトキ~キャッシュレスの?が!に変わる場所~HP)

 

1970年前後の銭湯経営難

 1960年代後半から1970年代にかけては、サウナ施設が新設されると同時に、銭湯がサウナに転業することも多かった時期です。1969年の『読売新聞』「“銭湯”がなくなる 昨年だけで17軒も」には「続々サウナに転業」*1という見出しも見られます。家風呂の普及などで廃業を余儀なくされる銭湯が増える中、サウナへの転業が増えたというのです。

 また、銭湯にサウナを併設することが、経営難打開の方策と考えられていたことも、新聞記事からわかります。「高温カラカラサウナが定着した理由」などでも取り上げた1971年『読売新聞』、「『サウナ併営を』都内の公衆浴場 業界が不振打開策」という記事には「都内の公衆浴場は、サウナブロを併営して経営不振を打開するとよい」*2という打開策が都公衆浴場問題協議会で示されたとあります。

浴場が社会的に必要とされ、しかも企業として生きていくためには、当面、サウナブロ設備の多様化型銭湯が一番適しているという結論を打ち出した。とくに、サウナブロの併設は、家庭にないものだけに、衛生、健康、娯楽の三つの目玉ができ、大衆化するとみている*3

 こうした当時の状況がわかる資料として、昭和45年(1970年)3月に全国公衆浴場業環境衛生同業組合連合会がまとめた『公衆浴場業の経営の多様化多角化に関する調査研究報告書』が、『公衆浴場史』に収録されています。

公衆浴場史

(画像出典:公衆浴場史(全国公衆浴場業環境衛生同業組合連合会『公衆浴場史』編纂委員会編) | 日本の古本屋HP)

 

 この中の「公衆浴場経営の近代化と多角化について」という資料には、銭湯の経営難についてまとめられています。

今日、多くの「公衆浴場」が非常な経営難にあって、それの改善が容易でないことは周知のとおりである*4

 ここでは、経営難の原因として以下の3点があげられています。

①入浴者数の減少

②料金の抑制

③経営転換の困難*5

 

 ①入浴者数の減少については、家庭風呂の普及により銭湯の利用者が減少していることが指摘されています。また、公営のアパートなどにも、各戸に風呂場が設けられるようになったことなども利用者減少の原因としてあげられています*6。家に風呂がない、という人がどんどん減る中で、銭湯の利用者が激減したということです。

 ②料金の抑制については、利用料金を各浴場で決めることができないという事情があげられています。公衆浴場の料金は「物価統制令」(昭和21年3月3日公布)で統制額が指定されており、任意の料金で営業することができず、これも経営難の原因だというのです*7

 ③経営転換の困難については、状況に応じて新しいことを始めるなどしようとしても、設備や労働力の問題で限界があったり、何かやりたくても資力・能力の点で実現できないということも多いことが指摘されています*8。一般の企業などに比べて、銭湯は経営転換が難しいといいます。それは、銭湯の経営態勢も関係があるようです。資料の中では、「浴場の経営にあっては旧態依然、昔からの家族労働に依存する『生活のための業(なりわい)』が多く、企業的な『利潤の取得』のようなこととはほど遠いこととなっている」*9と指摘されています。

 当時、こうした原因で多くの銭湯が経営難に苦しんでいたことがわかります。

 

銭湯経営の多角化

 多くの銭湯が経営難に直面する状況で、この資料ではその打開策として「経営の多角化」についても取り上げられています。

一般に今日の企業は、規模の大小を問わず、業種、業態のいかんに関係なく、利益のあるものを経営するという多角化の方向にすすんでいる。それは製品や取り扱い商品の種類をふやすことのほか、新しい事業経営に乗りだして、利益のあがるものに手をひろげるという方式をとっている。

もちろん、多角化といっても、すでに述べたとおり、真に利益の上がる効果的なものを見出して実施することは決して容易でない。しかし、”たたけよ、しからば開かれん”という言葉のとおり、それぞれの浴場の実情に適したものの発見に努め、適切、可能な方法で実施していかねばならない*10

 いろいろ難しいことはあれど、適切で可能な方法をとにかくやっていかなければ、ということです。具体的な多角化の方法としては、次の5点があげられています。

①家族風呂の経営

②「サウナ」の経営

③クリーニング関係業の兼営

④商品の販売

⑤貸間、貸店舗などの経営*11

 

つぼや

 時間貸しで家族風呂の提供をすること、クリーニング関係の業務を兼営すること、石鹸など商品を販売すること、場所を貸すことに加えてサウナの経営が入っています。銭湯経営の多角化の一つとして、サウナ経営があったということです。しかし、誰でもサウナを併設できるというわけではありません。サウナ営業については、次のように書かれています。

これは全国の諸都市にかなり設けられ、相当の業績をあげているようである。(略)ただこれの併設は、立地条件がよく、相当数の利用者のあることを要件とするから、どこでも可能というものでない。また建設に多くの資金を要するから、零細な業者単独ではすぐ手の出せるものではない*12

 1970年時点で、サウナ営業を始めた銭湯は多く、かなりの業績をあげていることが指摘されています。一方、立地条件や資金の問題などでどこでもできるわけではないということもわかります。初期の銭湯サウナの成功例として、一つ事例を見てみましょう。

 

初期の銭湯サウナの例

 『公衆浴場業の経営の多様化多角化に関する調査研究報告書』の中には「大衆サウナ兼営浴場の経営分析について」として、ある銭湯のサウナ導入事例が取り上げられています。具体的な名前は書いてありませんが、1967年に県内で初めてサウナを導入した銭湯の事例です。初期の銭湯サウナは、どういうものだったのでしょうか。取り上げられているのは、すぐれた経営感覚を持っていた長男と共にサウナを導入して成功したという事例です。

東京オリンピックが終わったころから、サウナがボツボツ出現し出したので、多様化の手段としてこれに注目し、各地のサウナを親子二人で見学して回った*13

 まずは1960年代後半から各地に作られ始めたサウナを親子で見て回ったそうです。この銭湯の場合、敷地が180坪と広く、71坪の浴場の隣に15坪のブロック建築で独立したサウナを作ることにしたそうです*14。完成したのは、1967年12月でした。最初のサウナ建設に必要だった費用は350万、内訳は次の通りです。

 

建物 15坪 180万

ボイラー 配管 60万

サウナ(15坪) 60万

その他 50万

計350万*15

 

 この銭湯では、「大衆サウナ」をコンセプトにサウナを導入したそうです。

当時サウナメーカーは四~五軒あったが、他の事業と兼業のものでなく、唯一のサウナ専門店を選んで工事を依頼した。全国各地見学から学んだことは、普通サウナの場合は、内装等に金がかかり過ぎて入浴料が高くなる。といって大阪式の一〇〇円程度の料金では設備が粗末すぎて魅力が薄いということである。客層を中級以下にしぼった大衆サウナを狙い、外観は見栄えがよく、内部もゆったりしたが、無駄な費用を極力省いた。いわゆる親しみやすいものにした*16

 親しみやすい「大衆サウナ」をコンセプトに、サウナ室以外もいろいろ考えて作られました。具体的には、休憩室・化粧室に熱帯魚、鉢植え、カラーテレビ、絵画、写真等を置き、雰囲気作りをしたといいます*17。さらに、ドライヤーとアンマ器を自由使用、つまり無料で提供したそううです。このドライヤー・アンマ器の自由使用について、資料では「これはわずかの金額でも無料で使うということは、客が何かしらの得をしたという感じの心理的効果の狙いである」*18と説明されています。

銭湯サウナ

(画像出典:雑色の住宅街に立つ昭和レトロな雰囲気を色濃く残す銭湯『太平湯』 | さんたつ by 散歩の達人HP)

 

 また、アメニティーについても基本的に無料にしたようです。「浴槽内のカミソリ、石鹸、シャンプーもすべて無料であるが、これも安物でなく中流品を使用している。中流品といっても、ごくわずかの違いであるので、これをケチらなかったことも客に受けた一因であろう」*19。少しの差なので良いものにして、提供は無料にしたということです。このあたりの工夫はたしかに客にとって魅力的だったかもしれません。

 タオルは小さいものが無料貸し出し、大きいものは有料貸し出しとしたようです。

浴場タオルももちろん無料貸しであるが、洗濯の際必ず消毒済みであるから安心してご使用ください、と帳場の壁に張り出してある。ただし小型バスタオル(スポーツタオル)は一回二〇円の貸料をとるが一日二〇~四〇人の利用がある*20

 タオルの貸し出しは今でもよくありますが、「消毒済みであるから安心して」という掲示をしたということは、当時あまり一般的でなかったのでしょうか。掲示するということは、衛生面を懸念する客がいたということですね。

 一方、マッサージ室の設置はあえてしなかったとあります。当時、客からの要望もあり、マッサージ室の設置も検討したそうですが、そうすると高級サウナの感覚にしなければならないので、大衆サウナのイメージが失われると考えて設置しなかったとあります*21

 この銭湯では「大衆サウナ」をコンセプトに、高級になりすぎないように、しかし客の満足度が高くなるように工夫されていることがわかります。そして、この狙いはピタリと当たり、多くの人がサウナを利用したそうです。

 サウナのオープンは昭和42年(1967年)12月3日でした。当初の入浴料金は200円、月極会員は1ヵ月2500円で、会員は当初20人ほどいたそうです*22。サウナは下記の位置に設置されました。浴槽は水風呂でしょうか。気になります。

 

サウナ

(画像出典:『公衆浴場史』p.269)

 

 図面を見ると、男性側にだけサウナがあるように見えますが、サウナは男女で時間を分けて提供していたそうです。営業時間は10時~22時で、朝10時~12時までの2時間が女性の利用時間、13時~22時までの9時間が男性の利用時間だったそうです*23。女性が使える時間は限られていますが、やはり利用者数も少なかったようです。女性は1日6~7人の利用だったと書かれています。女性の利用者は若年、中年層各半々、水商売70%、家庭主婦30%という割合だったそうです*24。午前中だけとなると、行ける人も限られそうですね。

 一方、男性のサウナ客は20~30代が80%と若年層の利用が中心であったようです。内訳としては、運転手、工員、商店店員が85%とその大半を占め、サラリーマンや中小企業主はわずかであったとのことです*25。こうした利用客層について、資料では「客層を大衆にまとをしぼった標準がピタリと当たったといえよう」*26と述べられています。

 曜日別の利用は、土日が圧倒的に多く、次に月・木、火・金は意外と少なかったといいます*27。やはり休みの日の方が行く人が多かったのでしょうね。

 このデータを見ると、初期の銭湯サウナの利用者は圧倒的に若い男性だったということになりますね。この銭湯のサウナ入浴者と飲物の売り上げの推移は下記のようにまとめられています。

 

サウナ

(画像出典:『公衆浴場史』p.270)

 

 入浴者数は、昭和43年(1968年)から昭和45年(1970年)にかけて上昇しており、43年8月の60人から100人をこえるまで上昇しています。女性の利用は時間が2時間と限られていたとはいえ、1日6~7人だったということですから、やはり男性の利用が中心ということがわかります。逆に言うとこの6~7人の女性たちは相当サウナ好きだったのかもしれません。女性にもサウナを、という動きは1970年代半ばくらいから見られるので早い段階のサウナファンの女性という感じでしょうか。

 飲物の売り上げも入浴者数と同じように上昇しています。金額としては、スカット、プラッシー、コーラ等を50円、ドリンク100~300円、ビール(小瓶)100円で販売していたそうです*28。牛乳は一人当たり単価が下がるので販売しないことにしたといいます*29。ビールは当初販売していなかったそうですが、客からの要望で販売を開始し、そのことで飲物の平均単価が上がり、総売り上げも上昇したといいます*30。サウナ上がりにビールを飲みたい人も多かったのでしょうね。

サウナの梅湯

(画像出典:サウナの梅湯 Twitterアカウント)

 

 この銭湯では、当初見込みよりサウナ客が多くなり、昭和43年(1968年)夏には早速増改築しています。15坪だったサウナ室を100万円で20坪に改築、固定客もいたので料金もそのタイミングで値上げしたそうです。入浴料を200円から230円に、月極の会費を1ヵ月2500円から3500円に値上げしたそうですが、この値上げでむしろ入浴者は増加したそうです*31

 資料には貸借対照表なども掲載されており、サウナ導入による効果が説明されています。

自己資本が三倍になり、家族給料が二倍―月一人平均九万円となっているので、実質的には驚くべき収益性の上昇といえる。(略)そしてこれはすべてサウナ経営による高収益に基因しているのである*32

 サウナの導入が経営にとってプラスであったことがわかります。この銭湯の例は、サウナ導入の成功例といえます。しかし、これは誰がやっても成功するわけではなく、やはり誰がやるか、ということも重要だったことが指摘されています。

サウナ兼業による多様化がいかに体質改善に寄与し、生産性を向上させ、成長性について期待が持てるようになったのが理解されたと思う。しかしたとえ、立地条件や資力に恵まれていたとしても、「経営は人なり」というごとく、経営者の能力と努力なくしては本浴場のような好結果はみられなかったと信じている。

それは当浴場より、立地や資本の条件がすぐれているにもかかわらず、多様化実施における失敗の実例をいくつも見せつけられているからである*33

 お金があり、よい場所に店を持つことができても、成功する人ばかりではないということですね。この銭湯の場合は、各地の銭湯を回ったり、「大衆サウナ」というコンセプトを明確にし、それに合わせてサービスを検討するなど、いろいろな工夫が見られました。少々の差額であればケチらず、客の満足度を優先するようなところもありました。こうした工夫と努力の結果、この銭湯サウナは好評だったということですね。こうした初期の成功例から、銭湯にサウナ兼業が勧められるようになったともいえそうです。

 

 今回は、銭湯の経営難が深刻だった1970年前後の初期の銭湯サウナの事例を紹介しました。今私たちが楽しんでいる銭湯サウナも、誕生にはいろいろドラマがあったのではないかと思います。いつの時代も、とにかくサウナがあればよい、お金があれば新しいことができる、という単純なことではなく、コンセプトをしっかり決め、ターゲットを明確にして、客の満足度を考えて経営するということは大事なのですね。

 

参考文献・資料

全国公衆浴場業環境衛生同業組合連合会(1972)『公衆浴場史』、全国公衆浴場業環境衛生同業組合連合会

『読売新聞』、「『サウナの併営を』都内の公衆浴場 業界が不振打開策」、朝刊、1971年8月13日

『読売新聞』、「“銭湯”がなくなる 昨年だけで17軒も 」、朝刊、1969年1月12日

*1:『読売新聞』、朝刊、1969年1月12日

*2:『読売新聞』、朝刊、1971年8月13日

*3:同上

*4:全国公衆浴場業環境衛生同業組合連合会、p.258

*5:同上

*6:同上、pp.259-260

*7:同上、p.260

*8:同上

*9:同上

*10:同上、p.264

*11:同上、pp.264-265

*12:同上、p.264

*13:同上、p.268

*14:同上、p.269

*15:同上

*16:同上

*17:同上

*18:同上

*19:同上

*20:同上、pp.269-270

*21:同上、p.271

*22:同上、p.270

*23:同上

*24:同上

*25:同上

*26:同上

*27:同上

*28:同上、p.271

*29:同上

*30:同上

*31:同上

*32:同上

*33:同上、pp.275-277