Saunology -Studies on Sauna

Saunology -Studies on Sauna-

サウナについて調べ、考え、まとめるブログ。知れば知るほど、サウナにはまだまだ謎がある。その謎を解き明かしていくために、サウナについて様々な角度から考察してサウナ理解を深めます。身体で感じるだけでなく、頭で仕組みを考えるとサウナはもっと楽しい。サウナ好きがサウナをもっと知りもっと楽しむために始めたサウナ考察ブログ。 お問合せは下記までどうぞ。 saunology37@gmail.com

「ニュー銭湯」

 「スーパー銭湯」という言葉は馴染みのある言葉で、スーパー銭湯にはサウナがあることが多いのでサウナ好きも利用することが多いと思います。入ることができる「サウナ施設」の少ない女性は特にスーパー銭湯に行くことも多いのではないかと思います。最近ではコワーキングスペースとバーを取り込んだ銭湯、「ハイパー銭湯」なども話題になりました。そんな中、新聞記事を見ていると「ニュー銭湯」という言葉も見かけます。「ニュー銭湯」という言葉が出てくる記事からは、30年ほど前の銭湯の生き残りをかけたリニューアルの様子などがうかがえます。今回は「ニュー銭湯」という言葉を中心に、30年前の銭湯リニューアルについて見てみます。

 

ニュー銭湯という表現

 新聞記事の中で「ニュー銭湯」が話題になるのは1980年後半から1990年前半にかけてです。例えば、「郊外型温泉ホカホカ レジャー感覚で人気」という記事では、次のように「ニュー銭湯」が出てきます。

車でおふろに行く、というレジャー感覚を取り入れた郊外銭湯が最近、大分市内に相次いでオープン、“ニュー銭湯”ブームと話題になっている。日本一の温泉県・大分ならではの話だが、温泉のほか、サウナや泡ぶろなどを備え、300円前後で利用できるとあって、家族連れや若者グループなどになかなかの人気。これに対し、苦しい経営が続く市街地の公衆浴場やサウナ業者にとっては、強敵出現といったところだ*1

 これは大分県の例ですが、いわゆる銭湯とは別の、スーパー銭湯に近いものを「ニュー銭湯」と呼んでいるようです。例として、「ぽかぽか温泉高松の湯」、「湯遊ランド」、「クリスタル温泉」が挙げられています。

 この記事は1989年の記事で、1989年の銭湯の料金は、東京都で295円でした。大分県の料金はそれより少し安かったのではないかと思います。それに対して、「湯遊ランド」は1300円と高めですが、「ぽかぽか温泉高松の湯」は280円、「クリスタル温泉」は310円と銭湯の料金に近い価格で入館できたことが記事からわかります。

 また、これらの3施設に共通する特徴として、記事の中では「他の産業から進出した異業種参入組」*2であることが指摘されています。「ぽかぽか温泉高松の湯」は弁当チェーンの竹屋本店が弁当の店を作ろうとしたところ温泉が出たので急遽温浴施設にしたもので、「湯遊ランド」は石油スタンド会社、「クリスタル温泉」は自動車整備工場が資本を投じて作ったとのことです*3。広い駐車場があり、サウナもあり、風呂の種類も多いこれらの温浴施設が人気で、一方既存の銭湯には「新しい浴場の相次ぐオープンで客足が減るなどの影響が出始めた」*4そうです。

 

湯游ランド

 (画像出典: 湯遊ランド - Piropedia - アットウィキ)※2006年3月30日廃業

 

クリスタル温泉

 (画像出典:総天然温泉のクリスタル温泉HP)

 

 大分県は泉源数4000をこえる温泉県*5ということもあってか、こうした郊外のレジャー施設のような温浴施設が1990年前後に多くオープンしたようです。1991年の記事では、ミニシアターや宴会場なども備えた「豊の国健康ランド」が「ニュー銭湯」として取り上げられています。入館料は1600円と高めですが、13種類の風呂があり、カプセルホテル代わりに使うサラリーマンもいたとのことです*6。この施設も異業種参入で、屋内スケート場を廃止して転身したものだといいます*7

 

豊の国健康ランド

 (画像出典:やすらぎの里 豊の国健康ランド | ニフティ温泉)

 

 このように、「スーパー銭湯」のような、銭湯より高めの、郊外の大型温浴施設を「ニュー銭湯」と呼ぶ記事があり、1990年前後には異業種による「ニュー銭湯」のオープンが見られるということです。

 

消える銭湯の番台

 一方、普通の銭湯が生き残りをかけてリニューアルする例を「ニュー銭湯」と呼ぶ記事もあります。1980年代後半から1990年代前半にかけての銭湯のリニューアルの特徴として、番台をフロントにするというものがありました。

東京の銭湯から「番台」が消えつつある。「視線が気になる」という若い女性客の気持ちを配慮し、このところ盛んな改築工事を機に、番台を脱衣所から玄関口に移す浴場が増えているためだ。すでに三百軒で「番台」という呼び名をやめ、「フロント」に。まるでホテルを連想する用語だが、脱衣所に背を向けたフロントには、自家ぶろの普及で減少の一途をたどる利用者を、何とかつなぎ止めようとする浴場側のねらいもあるようだ。斜陽産業といわれてひさしい公衆浴場。常連客の中には、なれ親しんだ番台を惜しむ声もあるが、”銭湯再生”の期待を担い、フロント方式は急速に広まりそうだ*8

 1987年のこの記事には、ここ3~4年、つまり1983年あたりから1987年までに約300軒から番台が姿を消したと書かれています*9。女性が気にする、というのが大きいようですが、別の記事では「女性だけでなく、内ぶろに慣れた若い男性らが番台に座られるのを恥ずかしがるため、最近改築される浴場は、脱衣場に背を向けて見えなくした『フロント方式』一色になっている」*10とあり、家風呂に慣れている若い世代は男性でも番台に抵抗があるということが示されています。実際に、番台からホテル風のフロントに変えた大阪市の「常盤温泉」では、中高生の客が3倍、1日約60人に増えたと言います*11。記事には、「常盤温泉」経営者の北川盛孝さん(62)は「ワシみたいなおっさんが座っていると気になるんかいな。時代は変わりました」と苦笑したと書かれています。

銭湯の番台

 (画像出典:[6]もし、銭湯の番台の上で仕事が出来るとしたらどうしますか!? moka.photo)

 

 とはいえ、銭湯と言えば番台、番台からフロント式に変えるにはいろいろな迷いや葛藤があったこともうかがえます。

若い客らが三倍増になった店もあるが、防犯上の心配や「番台との裸の付き合いが減る」とのお年寄りの声も。古き良き銭湯時代の番台は、生き残りをかけた時代の波に洗われ、消えていく運命にありそうだ*12

 実際に若い客が増える一方、番台を惜しむ声もあったことがうかがえます。東京都北区の「千代の湯」の4代目道具宗文さんは、改修工事をするにあたり、「初めは、昔ながらの番台にするつもりだった。悩んだ挙句、これに」とフロント式を導入した心境を語っています*13。番台にしようとしたところ、大工から「今どき番台をつくるところはないよ」と言われたといいます*14。大工にそう言われて、道具さんはその頃改修した銭湯を見に行って驚いたといいます。「確かに番台がないんだよ。子供の時から番台に上がっていたんだからねえ。(これでも銭湯かと)奇妙な気持ちだった」*15という道具さんの戸惑いも記事には書かれていました。大阪府公衆浴場業環境衛生同業組合の西田理事長も「フロント式を、お年寄りは場違いと思っていらっしゃるようですが、銭湯専門の大工さんに聞いても今後建築するのは、すべて番台がないタイプ。複雑な心境です」と発言しています*16

久松湯

 (画像出典:銭湯の入り方 | 【公式】東京銭湯/東京都浴場組合)

 

 家風呂の普及で、1964年末には全国で2万3000軒あった銭湯は、1990年末には約1万2000軒まで減少したといいます*17。この時期、戸惑いや迷いもありつつ、客を増やすためにフロント式に移行した銭湯は多かったようです。今ではフロント式が多くなりましたが、その形式はこの1980年代後半から1990年代初頭がルーツなのですね。

 

銭湯のリニューアル

 番台をなくすということに限らず、この時期にはリニューアルした銭湯が「ニュー銭湯」として新聞で紹介されています。例えば「ドボンと旅行気分 ゴージャスニュー銭湯」という記事では、東京都中野区の「湯ーてりあ・まつもと」について紹介されています。現在では「松本湯」という名前で、Saunologyはラジオ収録でもお世話になりました。1988年の新聞で、「湯ーてりあ・まつもと」は次のように紹介されています。

今月オープンしたばかりのこの浴場、並みの銭湯とは大違い。開業して半世紀になる「松本湯」の二代目松本浩一さん(四三)が、「銭湯のイメージを一新しよう」と、元の建物を取り壊し、路地に鉄筋五階建てのマンションビルを建設、うち一、二階を吹き抜けの銭湯にしたのだ*18

 銭湯のイメージを一新するため、建て替えをしたということです。昭和のサウナが閉店、というようなフレーズを最近よく耳にしますが、1980年代ですでに開業して半世紀と聞くと、改めて銭湯の歴史の長さを感じます。記事には銭湯の中の様子も書かれていました。

八十平方メートルのロビーは八畳の和室付き。若い女性の嫌がる番台はなく、用件はカウンターで。脱衣所、浴場は男女ともそれぞれ百平方メートルのゆったりサイズ。肝心のお湯は、普通の「主浴場」のほか、サウナ、三種類のマッサージぶろもある*19

 やはり番台は「若い女性が嫌がる」とされていて、カウンターになっていることに触れられています。中の構造は今と同じなのかなと思う描写です。松本湯は最近でも屋上でのテントサウナイベントなど、銭湯としては珍しい取り組みを行っています。

松本湯

(画像出典:松本湯(中野区|落合駅) ゆとりある空間と個性的な色彩がもたらす、くつろぎの時間 | 【公式】東京銭湯/東京都浴場組合)

 

 また、「ニュー銭湯」として同じく中野区の「アクア東中野」も紹介されていました。1992年の「ニュー銭湯で生き残れ 泳げる・森林浴…内ぶろ客にピタリ照準」という記事です。

東京都中野区東中野の銭湯「アクア東中野」。洗い場からガラス戸を開けて出ると、露天ぶろの隣にタテ約7メートル、ヨコ約2メートルの温水プールがある。普通のプールと違い、このプールは素っ裸で泳ぐ。オープン以来子供たちが占領、大人が入れないため、子供だけでプールに入る場合は午後6時まで、という制限を設けた。「よそにはない目玉を作りたかった」と経営者の石井隆夫さん(39)。40年以上にわたり「富士の湯」という名前で営業してきたが、施設が老朽化、この4月、3階建てに改築した。プールだけでなく、ジェットバス、打たせ湯、サウナなど「11種類のふろ」が売り物だ*20

 他の銭湯にはない目玉としてプールを作ったことが報じられています。料金は当時の東京都の銭湯料金(330円)、サウナは別料金で、改築してからの入浴者数は3割増加したといいます*21。経営者の石井さんの言葉として「内ぶろがある人にも来てもらうしか生き残る道はない」というものが記事の中で取り上げられています*22

アクア東中野

(画像出典:【銭湯・サウナ】「アクア東中野」(中野区・東中野)炭酸泉など種類豊富! 初心者におすすめかつプールもあって個性的 | 栗山真 - 打てば響く)

 

 この時期は、こうした生き残るための銭湯のリニューアルが各地で行われたようです。町田忍はこの時期の銭湯リニューアルについて次のように述べています。

このごろ目立つのは、生き残りを図るためのリニューアルですね。サウナ、露天ぶろはおろか、プールやカラオケボックスを備えたところさえあります。
伝統的なふろ屋も“ニュー銭湯”もそれぞれに楽しめます。いまどき三百円程度で、これだけゆったりと解放的な気分にひたれるものはないでしょう。窮屈な家庭ぶろとは比べようがありません*23

 銭湯の生き残りをかけたさまざまな取り組みが「ニュー銭湯」として報じられ、そうしたリニューアルのおかげで入浴者が増えていることも取り上げられていますが、一方で問題も指摘されています。

ただ、これらのニュータイプの銭湯に問題がないわけではない。急ににぎやかになったため、昔からのなじみのお年寄りが来にくくなるケースがある。いきなり土足で上がってくるなど、マナーを知らない客も増えている。また、新機軸がどれだけ続くかも問題だ*24

 それまでに来ていなかった層にアピールできれば、売り上げは伸びるわけですが、その分マナーの問題や常連が来にくくなるということが指摘されています。こうした点は、今の「サウナブーム」とも同じですね。人が増えるのはお店にとってよいことでしょうけれど、その分行きにくくなる人がいたり、マナーの問題が指摘されたりするわけです。

 

  今回は「ニュー銭湯」という言葉が出てくる記事を中心に30年前の銭湯のリニューアルについて見てみました。時代に合わせて形を変えゆき、新しい若い層を取り込んでいくことは利用者の増加につながるといえます。一方で、変えることでもともといた常連客は戸惑うこともあります。しかし、客が少なければ店自体がなくなってしまうことも考えられます。「サウナブーム」によって新しい層がサウナを利用するようになることで居心地の悪さを感じる人、戸惑う人もいるかもしれませんが、より多くの施設が存続するためには、やはり利用者の増加は歓迎すべきことなのかもなとも思います。

 

参考資料

『朝日新聞』、「郊外型温泉ホカホカ レジャー感覚で人気 大分」1989年5月26日、夕刊

『朝日新聞』、「今昔に浸る 銭湯に行きませんか(くらし)」1993年3月21日、朝刊

『朝日新聞』、「『ニュー銭湯』が人気 大分市で相次ぐオープン 」1991年2月22日、朝刊

『朝日新聞』、「ニュー銭湯で生き残れ 泳げる・森林浴…内ぶろ客にピタリ照準」1992年6月19日、朝刊

『読売新聞』、「ドボンと旅行気分 ゴージャスニュー銭湯」1988年4月30日、朝刊

『読売新聞』、「ニュー銭湯時代 消える番台 フロント方式で若者つなぎとめ」1991年9月1日、朝刊

 『読売新聞』、「番台消えて『いい湯だな』ニュー銭湯、改築作戦進行中」1987年5月24日、朝刊

 

 

 

*1:『朝日新聞』、1989年5月26日、 夕刊

*2:同上

*3:同上

*4:同上

*5:『朝日新聞』、1991年2月22日、朝刊

*6:同上

*7:同上

*8:『読売新聞』1987年5月24日

*9:同上

*10:『読売新聞』、1991年9月1日、朝刊

*11:同上

*12:同上

*13:『読売新聞』、1987年5月24日朝刊

*14:同上

*15:同上

*16:『読売新聞』、1991年9月1日、朝刊

*17:『朝日新聞』、1992年06月19日、 朝刊

*18:『読売新聞』、1988年4月30日、朝刊

*19:同上

*20:『朝日新聞』、1992年6月19日、朝刊

*21:同上

*22:同上

*23:『朝日新聞』、1993年3月21日、朝刊

*24:『朝日新聞』、1992年6月19日、朝刊