「サウナと歴史 日本の蒸気浴の歴史」で見たように、中世については風呂の形式についての資料もあり、この頃には広く蒸気浴が行われていたことがわかっています。今回は中世の蒸気浴について詳しく見てみましょう。
蒸し風呂形式の「フロ」の定着
平安時代末期から文献にあらわれ始めた「フロ」ですが、鎌倉時代になると様々な資料に登場するようになります。そして、この時代の「フロ」は確実に蒸し風呂形式であったと考えられています*1。例えば、鎌倉時代の宮廷医、惟宗具俊による医学随筆集『医談抄』の「風呂事」という項目には次のような記載があります。
遊戯沈酔ノ人ノ所為ナリ、湊理ヲムシアケテ冷水ヲカケアラハヾ、ヒサシク雑談シテ風ヲ引ナルヘシ*2
「湊理」は皮膚のことです。皮膚を蒸し上げて冷水をかけて洗う、という内容で蒸気浴を行っていた記録の一つということになります。
また、室町時代になると公家の日記に「風呂」という言葉が多々登場するようになります。公家の日記に登場する「風呂」は銭湯であると考えられ、形式は蒸気浴だったと考えられています*3。中世には、「風呂」(蒸気浴風呂)が定着していたと言えるでしょう。
浴堂の蒸し風呂
浴堂の風呂についても中世に関しては資料が残っていて、形式が基本的に蒸し風呂であったことがわかります*4。「サウナと歴史 日本の蒸気浴の歴史~古代~」で見たように、古代の寺院の浴堂では銅釜を使って蒸気浴をしていたのではないかと推察されていました。
絵巻などの資料を見ると、中世の浴堂は外から蒸気を送り込む形の蒸気浴風呂が多かったのではないかと考えられます。外の釜から浴室に蒸気を送り、汗で身体の汚れを浮かして、湯・水をかけて身体を洗っていたようです。
(『慕帰絵詞』*5 p.22 より)
浴堂の解放
また、寺に作られた浴堂を病人や貧しい人たちに解放する「施浴」は中世に特に幅広く行われていたようです。例えば『東大寺縁起絵巻』には、光明皇后の施浴の場面が絵画化されています。
病人の身体を洗う光明皇后。(『東大寺縁起絵巻』pp.90-91 より)
この絵からも、浴堂が外から蒸気を送るタイプの蒸し風呂だったことがわかります。「施浴」によって、貧民や病人、いわゆる庶民にも蒸気浴の機会が与えられた時代といえるでしょう。
「施浴」などに見られるように、鎌倉時代には寺院の浴堂は医療・福祉的な役割もありましたが、室町時代になると親戚縁者の集まりや宴会にも利用されるようになります。入浴の目的が次第に変わっていくのがわかります*6。そして、穢れのある人と一緒に入りたくない、という差別意識も生まれてきて、次第に個人風呂・貸切風呂を作る工夫がなされるようになります*7。
個人・貸切蒸し風呂
個人や貸切で風呂に入るための工夫の一つに「板風呂」があります。中世の説話集『今物語』には「板風呂」という話があります。
ある所に、板風呂といふ物をして、人々入りけるに、この僧、目を病むよし言ひければ、目をひさぎて入るは苦しかるまじきよしを、人々言ひければ、さらばとて、目をゆひて、板風呂のありさまも知らぬ者の、目は見えざりければ、風呂の前に、脇戸の内のありけるに、風呂と心得て、裸にて、かかへたる所もうち解けて居にけり。人々、女房など見おこせたるに、裸なる法師の、隠し所もうち出だして、「あな、ぬるの風呂や。焚け、焚け」と言ひて居たりける、いとをかしかりけり。*8
目の悪い僧が板風呂に初めて入って、形式を知らなかったため脇戸の近くを風呂だと思って裸になった、という笑い話です。
板風呂は、蒸気を逃がさないために出入り口に引き戸をつけた風呂のことです。これは江戸時代の蒸し風呂にもつながっていく形式です。
伏見の公衆風呂の絵。この絵は『狂歌旅枕』(江戸時代前期の狂歌集)のものだが、中世からこうした引き戸のついた板風呂があったと考えられている。(『風呂とエクスタシー』p.155より)
中世には僧侶も貴族も蒸気浴をし、施浴により庶民にも蒸気浴の機会が与えられたと考えられます。日本人が幅広くサウナに入り始めた時代と言えるでしょう。
参考文献
筒井功(2008)『風呂と日本人』、文藝春秋
山内昶・山内彰(2011)『風呂の文化誌』、文化化学高等研究院出版局
吉田集而(1995)『風呂とエクスタシー 入浴の文化人類学』、平凡社
参考資料
『医談抄』、国文学研究資料館「新日本古典籍総合データベース」より(京都大学附属図書館 蔵)
『今物語』、三木紀人 全訳注、講談社学術文庫、1998年
『東大寺縁起絵巻』、小松茂美 編、「東大寺大仏縁起:二月堂縁起」、『続々日本絵巻大成 6』、中央公論社、1994年
『慕帰絵詞』、小松茂美 編、『続日本の絵巻 9』、中央公論社、1990年