Saunology -Studies on Sauna

Saunology -Studies on Sauna-

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サウナと歴史 日本の蒸気浴の歴史~近世から近代①~

 「サウナと歴史 日本の蒸気浴の歴史」で見たように、近世は蒸し風呂から湯風呂への移行期と言えます。蒸気浴が中心であったと考えられる日本の沐浴は、半分蒸気浴・半分温湯浴という時期を経て、温湯浴中心に移りかわっていきます。メインだった蒸気浴が廃れて温湯浴にとってかわる、というのではなく「蒸し風呂の装置自体が温湯浴用へ変化した」*1と言われています。どういうことなのか、今回と次回は近世から近代までの沐浴について詳しく見てみましょう。

近世から近代の蒸気浴の歴史とサウナ_1

 

 風呂の東西

 江戸に最初にあらわれた銭湯も、蒸気浴風呂でした。江戸初期の見聞記、『慶長見聞集』*2(慶長19年、1614年刊とされている)*3には、江戸で最初の銭湯だと思われる銭湯*4についての記述があります。

見しはむかし、江戸繁昌のはじめ天正十九卯年夏の比かとよ。伊勢與市といひしもの、錢瓶橋の邊りにせんとう風呂を一つ立る。風呂錢は永樂一錢なり。みな人めづらしきものかなとて入玉ひぬ。されども其ころは風呂ふたんれんの人あまたありて、あらあつの湯の雫や、いきがつまりて物もいわれず、煙にて目もあかれぬなどゝ云て、小風呂*5の口に立ふさがり、ぬる風呂を好みしが、今は町毎に風呂有。*6

 伊勢與市という人が錢瓶橋のあたりに銭湯を作った、入浴料は永楽銭一文であったと言うのです。そして、「風呂にふたんれんの人」、つまり蒸し風呂に不慣れである人がたくさんいたと言います。これは、蒸し風呂だから不慣れだったというよりは、この時江戸の庶民には沐浴の習慣があまりなかったためだろうと考えられています*7

 ここまで見てきた蒸し風呂の歴史は、主に西日本の沐浴文化でした。東日本では、温泉浴はしていたものの、西日本のような人工的な設備・施設での沐浴はあまり発展していなかったのかもしれません。江戸の庶民が「ふたんれん」であったのも、そのためでしょうか。西は蒸し風呂中心、東は湯風呂中心という傾向は、現代でも言葉の上で残っていると言えます。関西では「風呂に行く」と言い、関東では「湯に行く」と言うのは、この名残りだと指摘されています*8

 現在も日本のサウナは西高東低、と言われることがありますが、関西はサウナが充実していると言われるのは、こうした歴史があるからかもしれません。日本の沐浴の歴史を見てみると、政治権力が西から東へと移るにつれ、沐浴文化も蒸気浴中心から温湯浴中心へと移りかわっていくのがわかります*9。天正から慶長の頃は蒸し風呂から湯風呂への移行期*10だとされています。

 

蒸し風呂の進化

 「サウナと歴史 日本の蒸気浴の歴史~中世~」で見たように、中世には既に板風呂があったことがうかがえます。板風呂は蒸し風呂の蒸気を逃がさないために出入り口に引き戸をつけた風呂です*11

 近世になると、戸棚風呂という半分サウナ・半分お湯の形式の風呂が登場します。これは、蒸し風呂の床を板敷にして浅く湯をはった風呂です*12。部屋はせまく、ぴったりと引き戸で閉めているので室内に湯気がこもる仕組みでした。

 戸棚風呂がいつ頃から現れたか、はっきりとはわかっていませんが、『俳諧桜狩』(寛保3年、1743年)に「かみ様をぬっと吐き出す戸棚風呂」とあるそうで、この頃にはあったということがうかがえます*13

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『守貞慢稿』に見られる戸棚風呂。(『『入浴』はだかの風俗史』p.70より)

 

 こうした板風呂や戸棚風呂では、中で汗をかいて身体の汚れを浮かして、外の板敷の部屋に出てきて桶に入っている冷水で身体を冷やしたり洗ったりしていたようです*14。しかし、こうした出入り口が引き戸の蒸し風呂は沢山の人が使うとすぐに温度が下がり、蒸し風呂にならないという難点がありました。

 その対策として、石榴風呂(ざくろぶろ)が考案されました。石榴風呂は戸がなく、前面の大部分を板でふさいて、下端だけを開放する形の風呂でした。利用者は腹ばいで出入りしていたようです*15。この出入り口を石榴口と言いました。客が腰をかがめて入るわけですが、「かがむ」を「鏡」という言葉に掛けて、鏡を鋳るのに柘榴の実の酢を使ったことから、洒落で「かがみいる」=「石榴口」と言われるようになったとされています*16

 「石榴風呂」という言葉は、古くは京都の僧侶である安楽庵策伝の咄本『醒睡笑』(元和9年、1623年)に出てくるので、関西では江戸初期にはあらわれていたと考えられます。『醒睡笑』には、以下のような記述があります。 

いづれもおなし事なるを。つねにたくをば。風呂といひ。たてあげの戸なきを。柘榴風呂とはなんぞいふや。かゞみゐる。いるとのこゝろ也。*17

「『どちらも同じことであるが、いつも焚いて入るのを蒸し風呂といい、蒸し風呂の引き戸がないのを柘榴風呂というのは、なぜであろうか』というと、『かがみ入ると要るの洒落である』といった」*18という内容です。

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『賢愚湊銭湯新話』に見られる石榴口。(『風呂とエクスタシー』p.157より)

  

 半分サウナ・半分お湯の戸棚風呂や石榴風呂など、蒸し風呂が進化していく一方で近世には湯風呂も登場します。そして日本の沐浴は次第に蒸し風呂中心から湯風呂中心に移行していきます。次回は近世から現代の続きで、蒸し風呂から湯風呂への移行の過程をたどってみます。

 

 

参考文献

筒井功(2008)『風呂と日本人』、文藝春秋

花咲一男(1993)『『入浴』はだかの風俗史』、講談社

山内昶・山内彰(2011)『風呂の文化誌』、文化化学高等研究院出版局

吉田集而(1995)『風呂とエクスタシー 入浴の文化人類学』、平凡社

 

参考資料

『慶長見聞集』、三浦浄心、『日本庶民生活史料集成 見聞記』第8巻、三一書房、1969年

『醒睡笑』、安楽庵策伝、宮尾與男 訳注、『全訳注 醒睡笑』、講談社学術文庫、2014年

 

 

*1:筒井、p.191

*2:三浦浄心(茂正)による江戸初期の見聞記

*3:1614年刊行とされているが、寛永期(1624~44年)の内容も含み、後の人が三浦浄心に仮託して書いた可能性もあるとされている。

*4:江戸の銭湯のはじまりは正確にはわかっていないが、これが最初の銭湯ではないかと考えられている。

*5:詳細はわかっていないが蒸し風呂の外に湯をためて置いてあった浴槽ではないかと考えられている。

*6:『慶長見聞集』、p.534

*7:筒井、p.192

*8:山内・山内、p.174

*9:同上、pp.173-174

*10:同上、p.172

*11:同上、p.162

*12:筒井、p.194

*13:同上、p.196

*14:同上、p.193

*15:同上

*16:花咲、p.60

*17:『醒睡笑』、p.78

*18:現代語訳は宮尾與男の訳