Saunology -Studies on Sauna

Saunology -Studies on Sauna-

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日本の蒸気浴の歴史~中古~

 「日本の蒸気浴の歴史」で見たように、平安時代には「ユヤ」という言葉があらわれ始め、平安末期には屋形を構えた蒸気浴施設も登場したのではないかと推察されています。今回は平安時代の蒸気浴について詳しく見てみましょう。

中古の蒸気浴の歴史とサウナ

 

ユヤの登場

 平安時代から「ユヤ」という言葉が文献にあらわれ始めます。例えば、史書の『日本三代実録』の中の貞観17年(875年)の記録に「御湯舎」に鹿が迷い込んだという記事があります*1。「御湯舎」は恐らく「オユヤ」と読まれていたと考えられています*2。また、漢和辞書『倭名類聚抄』(10世紀前半)にも、浴室の説明として「俗云由夜」という記載*3があり、「由夜」は「ユヤ」と読まれていたと考えられています*4。平安時代には文献上に「ユヤ」という言葉が登場するので、広く使われていたと推測できます。「ユドノ」という言葉も文献に見られます*5

 また、平安時代の沐浴習慣について藤原師輔が公卿としての心得をまとめた家訓の『九条殿遺誡』(10世紀半ば)には、「次に日を択びて沐浴せよ(五箇日に一度)」*6という記述があります。「日を択びて」とあり、またその前にも「次に暦を見て日の吉凶を知れ」*7とあるように、沐浴して良い日かどうかはその日の吉凶によると考えられていたことも知られています*8。吉凶を考慮した上で、公卿たちは沐浴をしていたと考えられます。

 この時代の「ユヤ」、「湯」がつくからと言って温湯浴だったとは言い切れないと指摘されています。釜に湯をはり、その湯気を密室に導く蒸気浴の可能性も十分あり、また中世の資料などから推察するに、その可能性は高かったと考えられています*9

 少なくとも、現在私たちが入るような、湯舟にたっぷりお湯をはって浸かるという形式はこの時代「きわめて稀」*10であったと言います。その証拠の一つに、天皇の浴槽の記録があります。平安時代の法律集『延喜式』(10世紀前半)の巻三十四、木工寮の部に、朝廷で使う湯舟についての記載があります。そこにはこう書いてあります。

沐槽 カシラアラフフホ。長三尺。廣二尺一寸。深八寸。

浴槽。長五尺二寸。廣二尺五寸。深一尺七寸。厚二寸*11

  これによると、大きい方の浴槽でも深さは一尺七寸となっています。一尺が約30.0cm、一寸が約3.03cmですので、深さは51cm程度ということになります。このことから筒井功は、現代のようにどっぷり湯に浸かることは天皇でもしていなかったと指摘します*12

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大嘗会(即位後初めての新嘗祭)で 天皇が湯浴みする湯槽の図。長さ116cm、幅74cm、深さ57cm。

(『古事類苑』、「器用部」、「澡浴具二」、p.613より

 

蒸気浴施設の登場

 平安時代末、公卿の中山忠親の日記『山槐記』の治承2年(1178年)の記録に「自風炉東奉文事」(風炉ノ東ヨリ文ヲ奉ルコト)という記載があります。「風炉」という建物か施設があったということがうかがえます。こうした記述により、この頃から屋形を構えた蒸気浴施設が登場したのではないかと考えられています*13。この『山槐記』に見られる「風炉」が、「フロ」という言葉が初めて文献に登場した例*14だとされています*15

 『山槐記』に登場する「風炉」の詳細はわからないものの、鎌倉時代に「フロ」と呼ばれるものは確実に蒸し風呂を意味するようになるので、『山槐記』の「風炉」も蒸気浴の可能性が高いとされています。平安時代末期には、自然の石風呂ではなく屋形を構えた蒸気浴施設が登場したと推察されます。日本のサウナ施設の始まりは平安時代、と言っても良いかもしれませんね。

 

枕草子に塩風呂??

 ところで、平安時代中期に成立したと考えられる『枕草子』に「塩風呂」についての以下のような記述があるという説をちらほら見かけます。

 塩風呂等に入ると同しく、その所にてたつるやうと聞きしに、小屋あって、其の中に石を多く置き、之を焚きて水を注ぎて湯気を立て、その上に竹の簀を設けてこれに入るよしなり、大方村村にあるなり

  石に水をかけて湯気を立てる塩風呂が村ごとにあったという内容ですが、『枕草子』にこの文章が出てくると書いている文献やサイトには、具体的にそれが『枕草子』の何段に出てくるかについて記載がなく、『枕草子』自体を見てみてもその文章は見当たらず、この記述が『枕草子』のものであるという見解は誤解の可能性があります。なぜ誤解だと言えるか、中世の話にうつる前に次回は『枕草子』の塩風呂記載の謎について考えてみたいと思います。 

   

参考文献

池田亀鑑(1973)『平安時代の文学と生活』、至文堂

筒井功(2008)『風呂と日本人』、文藝春秋

中桐確太郎(1974)「風呂」、長坂金雄 編、『日本風俗史講座』第十巻、雄山閣出版、pp.495-644

 

参考資料

『延喜式』、黒板勝美 編、「交替式・弘仁式・延喜式」、『国史大系』第26巻、国史大系刊行会、1937年

『九条殿遺誡』、『群書類従』第弐拾七輯、続群書類従完成会、pp.136-139、1934年

『古事類苑』、神宮司庁、『古事類苑』、古事類苑刊行会(神宮司庁 明治42年刊の復刻)、1932年

『日本三代実録』、『国史大系』第四巻、国史大系刊行会、1934年

『倭名類聚抄』、『二十巻本倭名類聚抄[古活字版]』巻13、国立国語研究所、日本語史研究用テキストデータ集(最終閲覧日:2019年1月10日)

 

 

*1:原文は「麋鹿一入主殿寮御湯舎。」『日本三代実録』、p.366

*2:筒井、p.77

*3:「二十巻本和名類聚抄巻十三に「浴室 内典有温室経今案温室即浴室也[俗云由夜]」という記載がある。国立国語研究所 テキストデータ集より。

*4:筒井、pp.77-78

*5:池田、p.252

*6:筆者書き下し。原文は「次擇日沐浴。五箇日一度。」、『九条殿遺誡』、p.136

*7:筆者書き下し。原文は「次見暦知日吉凶一。」、『九条殿遺誡』、p.136

*8:池田、p.252

*9:筒井、p.78

*10:同上

*11:『延喜式』、p.786

*12:筒井、p.79

*13:筒井、p.81

*14:屋形を構えた施設という意味での「風炉」は『山槐記』が初出のようだが、『延喜式』(10世紀前半)に「白銅風爐一具料」とあるので、「火鉢」をあらわす語としての初出はもう少し早いと言える。

*15:中桐、pp.496-497