Saunology -Studies on Sauna

Saunology -Studies on Sauna-

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サウナと歴史 日本の蒸気浴の歴史~近世から近代②~

 前回「サウナと歴史 日本の蒸気浴の歴史~近世から近代①~」で見たように、近世は蒸し風呂から湯風呂への移行期となっています。戸棚風呂や石榴風呂などが登場する一方で、湯風呂もあらわれてきます。今回は、湯風呂が登場し、蒸し風呂中心から湯風呂中心に移り変わる過程を見てみましょう。

近世から近代の蒸気浴の歴史とサウナ_2

 

湯風呂の登場

 蒸し風呂にいろいろな工夫がされる一方で、湯に浸かるタイプの風呂も登場します。その一つに、「据え風呂」があります。これは移動式の風呂桶で、後により熱効率の良い「鉄砲風呂」や「五右衛門風呂」に発展していきます。

 これらの湯に浸かる風呂も、近世の文献にはあらわれ始めます。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(享和2年~文化6年、1802年~1809年)では、弥二郎と喜多八が小田原宿で五右衛門風呂に入る場面があります。

土をもつてかまをつきたて、そのうへゝ、もちやのどらやきをやくごときの、うすぺらなるなべをかけて、それにすいふろおけをきけ、まはりをゆのもらぬよふに、しつくひをもつて、ぬりかためたる風呂なり。これへ湯をわかすに、たきゞ多分にいらず、りかただいいちのすいふろなり。くさつ大津あたりより、みな此ふろ也。すべて此ふろには、ふたといふものなく、底板うへにうきているゆへ、ふたのかはりにもなりて、はやくゆのわくりかた也。湯に入ときは、底を下へしづめてはいる。弥二郎このふろのかつてをしらねば、そこのういているを、ふたとこゝろへ、何ごゝろなくとつてのけ、ずつとかたあしをふんどんだところが、かまがじきにあるゆへ、大きにあしをやけどして、きもをつぶし「アツヽヽヽヽこいつはとんだすいふろだ」*1

五右衛門風呂はまわりを漆喰で塗り固めてあり、底板が浮いて蓋の代わりになってはやく湯が沸く仕組みで「りかただいいち」、つまり利便性重視の湯風呂だったことがわかります。入る時には底板を沈めて入る必要がありますが、弥二郎はこの風呂の形式をよく知らず、それをどかして入ってしまったため足を火傷してしまいます。

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五右衛門風呂の図。上の文字は「旅籠屋の湯風呂にうかむ落ち葉かな 十返舎」。(『東海道中膝栗毛』、p.73)

 

 また、西日本でも次第に湯風呂が多くなっていく様子が京都に関する史料からうかがえます。『京都御役所向大概覚書』(1717年頃成立)には、形式別で温浴施設の数が記録されています。  

洛中 一、湯屋敷  五拾八軒

 同 一、居風呂敷 拾弐軒

 同 一、風呂屋敷 拾三軒

 同 一、鹽風呂敷 五軒

 同 一、釜風呂敷 八軒*2

 「湯屋敷」は「湯屋」、「居風呂敷」は「据え風呂」のことです。湯屋が58軒、据え風呂が12軒なので、湯風呂の合計は70軒になります。一方、「風呂屋敷」は13軒、「鹽風呂敷」(塩風呂)は5軒、「釜風呂敷」は8軒と、蒸し風呂の合計は26軒になります。このデータは、「正徳五未年改」とあります。正徳五年は1715年ですから、この頃には既に西日本でも湯風呂の方が蒸し風呂より多くなっていたことがわかります。

 しかし、近世の蒸気浴から温湯浴への移りかわりは、単純に蒸し風呂があった施設に据え風呂が代わりに置かれる、というような形ではなく、蒸し風呂自体が次第に温湯浴風呂になっていく形と言えそうです。

 

蒸気浴から温湯浴へ

 「サウナと歴史 日本の蒸気浴の歴史~近世から近代~①」で見たように、石榴風呂は戸ではなく前面を板でふさいだ風呂でした。利用者は石榴口を腹這いでくぐって出入りしていたようです。石榴口の奥が蒸し風呂形式で、熱を逃がさないために入口を板でふさいていたためです。しかし、蒸し風呂用だった湯の量が次第に増えていき、石榴口の奥には浴槽が置かれるようになっていきます。それにともなって、石榴口はだんだん位置が高くなり、もともとの熱気を逃がさないためという役割を失って装飾品となっていきます。これは銭湯壁画のルーツとも言われています*3

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  石榴口の例。入口の高さが高くなっている。(『江戸入浴百姿』口絵より)

 

 この絵に見られる石榴口は、既に熱気を逃がさないためという役割を失い、装飾品となっている例だと言えるでしょう。

 

蒸気浴との決別

 このように日本の沐浴は次第に温湯浴へと移行していきます。近代になると衛生上・風紀上の理由から石榴口が禁止されます*4。明治17年(1884年)のことです。

 そして明治10年(1877年)には神田に温泉地の浴槽を応用した銭湯が登場します。湯をたっぷり入れた浴槽、流し場の天井を高くして湯気抜きの窓を設けた「改良風呂」といわれるもので、現代の銭湯の先駆けとされています*5

 こうして日本の沐浴は蒸気浴と決別し、温湯浴中心になっていきます。サウナが日常の沐浴から特殊な沐浴になったのは、近代になってようやくだということがわかります。本場のサウナと言うとフィンランドのサウナやロシアのバーニャを思い浮かべる人も多いと思いますが、日本の沐浴史の中心は蒸気浴で、日本には日本固有の豊かなサウナ文化があったのですね。

 

参考文献

花咲一男(1992)『江戸入浴百姿』、三樹書房

花咲一男(1993)『『入浴』はだかの風俗史』、講談社

山内昶・山内彰(2011)『風呂の文化誌』、文化化学高等研究院出版局

吉田集而(1995)『風呂とエクスタシー 入浴の文化人類学』、平凡社

 

参考資料

『京都役所向大概覚書』、岩生成一 監修、『清文堂史料叢書』第5刊・上巻、清文堂、1973年

 『東海道中膝栗毛』、十返舎一九、中村幸彦 校注、『新編日本古典文学全集』81巻、小学館、1995年

 

*1:『東海道中膝栗毛』、p.72

*2:『京都御役所向大慨覚書』、p.291

*3:花咲、1993年、p.61

*4:吉田、p.158

*5:同上