木の匂いとリラックス効果の関係
森林浴に効果をもたらすものの一つに樹木が放出するにおい成分の働きがある。樹木は様々な揮発性成分を放出するが、中でも最も量的に多いのがテルペン類である*1。
匂いと記憶
フィトンチッドの一部である、α―ピネン、リモネンは広く森林で抽出されるが、極めて低濃度であり、森林浴効果は、あくまでも視覚、聴覚、嗅覚、触覚などの他の感覚を含めた総合的な影響であると考えられている*8 。
「フィトンチッド」という言葉は、森林浴の効果としてよくあげられますが、植物が自分を守るために発する殺菌成分のことだそうです。植物を意味する「phyto」と、殺すを意味する「cide」で構成された言葉で、1930年頃、旧ソ連のB.P.トーキンにより発見されて名付けられたものです*9。木の発する匂い自体が人体に大きく影響するというより、五感を通した総合的な効果があるに過ぎないのでは、ということです。「サウナとアロマ」でも、アロマテラピーについて、匂いが直接人体に与える影響は科学的に証明しにくいことを指摘しました。
また、「木の匂いが好き」という好みの問題になると、これはかなり個人差があると考えられます。もともと、匂いは「年齢、性別、地域等の違いよりも個人差が強い」*10とされています。
そして、嗅覚は五感の中で最も記憶と結びついているという指摘もあります。それは、「嗅覚が五感の中で唯一、嗅細胞・嗅球を介して、本能的な行動や喜怒哀楽などの感情を司る大脳辺縁系に直接つながっているので、より情動と関連づけしやすいため」*11と言われています。匂いを嗅ぐことでそれにまつわる記憶がよみがえる、という経験をしたことがある人も少なくないのではないでしょうか。このような特定の匂いが、それに結びつく記憶や感情を呼び起こす現象は、「プルースト効果」と呼ばれています*12。例えば暗記をするときに特定の匂いを嗅ぎ続け、思い出さなければならないときにその匂いを嗅ぐと思い出しやすいそうです。また、匂いによって思い出せなかった記憶が意識によみがえることもあると言います。
「サウナとアロマ」でも、匂いが直接人体に影響するというより、「条件反射を応用すること」*13が有効であるという指摘を紹介しました。つまり、好きな香りを探して、日頃からその香りをかぎながらリラックスする練習をして、ストレスを感じたときにその香りをかぐことでリラックスできる、という使い方です。これも、匂いと記憶が密接に結びついているために有効な手段です。
木の匂いについても、万人にとって心地良い、好ましいものというわけではないでしょう。英語でwood、smellなどの単語で記事を調べると、どのように家具の木の匂いを落とすか、というような記事も多いことがわかります。日本語の記事でも、強すぎる新しい家具の匂いを落とす方法についての記事はありますが、木の匂いで癒し、というものは日本語文献の方が多いように感じました。また、「サウナと木材」で紹介した北米の例のように、風呂周りに木材を使うことが必ずしも一般的ではない文化圏の人にとっては、入浴するときに木の匂いがすることは必ずしもリラックスできるものではないかもしれません。一方、「サウナと木材」ではフィンランドのサウナに専ら木材が使われることから、サウナは木材で作るという文化ごと他の国にも入っているということも指摘しました。日本も桧風呂など、浴室環境に木の匂いが伴うことのある文化圏です。伝統的に木材を浴室環境に使う文化圏では、風呂でかぐ木の匂いに違和感がなく、リラックスできるのかもしれません。
現代人と木の匂い
そもそも、「森林浴」という言葉自体、歴史の浅いものです。「森林浴」とは、1982年に林野庁の「森林浴構想」の中で、秋山林野庁長官(当時)が命名したものです*14。「森林の中には殺菌力を持つ独特の芳香が存在し森の中にいることが健康体をつくる」という構想のもとに発表された言葉だそうです*15。自然休養林など、国有林を積極的に利用し、森林におけるレクリエーションを楽しみながら健康な体づくりをしよう、というキャンペーンとして出てきた言葉というわけです。
(画像出典:マイナスイオンを浴びて癒される!関東近郊の森林浴スポット7選 | キナリノ)
「森林浴」に関するものを調べていくと、「都会の喧騒を離れて」「都会のストレスを忘れて」というような言葉が並んでいます。あまり自然の多くない環境で生きている現代人にとっては、木の匂いに触れるのは「リラックスしているとき」であるとも言えます。木の匂いをかぐとリラックスする、というのは、成分のせいではなく、むしろ現代人にとっては、木の匂いは「リラックスできる香り」として記憶されているということではないでしょうか。結果的に、都会にいながらでも木の匂いをかぐと「仕事から離れた」「ストレスから離れた」ときの気持ちになり、リラックスできるという仕組みが考えられます。
また、知識として、「木の匂い」は「リラックスできる」「良いもの」とインプットされているため、木の匂いをかいだときに好ましい印象を抱くということもありそうです。木の中でも、ヒノキの香りは桧風呂などのイメージもあり「高級なもの」というイメージが文化的に形成されています。例えば、同じヒノキの匂いを嗅がせて「好き」か「嫌い」か判断してもらう実験で、これはヒノキであるということを告げる場合と、告げない場合とでは 、ヒノキであると告げた場合の方が「好き」と答える割合が高くなると言います*16。それは「ヒノキの良い材、良い香りとしての先入観があるからである」*17と指摘されています。つまり純粋に香りだけで「好き」「嫌い」を判断するより、ヒノキだと知ってその香りをかいだ方が「良い香りだ」と認識しているということです。純粋な匂い成分よりも、こうした現代人の文化の中での記憶によって、木の匂いは「リラックスできる匂い」と多くの人に感じられているのではないでしょうか。
サウナ好きにヴィヒタの香りが好きな人が多いのも、サウナ室でかいだ記憶があるからということも影響しているかもしれません。サウナ室以外でもヴィヒタの香りをかいでいいなぁと感じる人もいると思いますが、これもヴィヒタそのものの匂いのためだけではなく、やはり、好きなサウナ室でかいだ匂い、という記憶と結びついているのではないでしょうか。
今回は木の匂いについて考えてみました。都会の中で忙しく暮らし、ストレスの多い現代人にとって、木の匂いは経験的に「リラックスできる匂い」であり、木材を使っていたり、ヴィヒタが置いてあったりするサウナは現代人にとってこそ、癒しの空間として効果が高いとも言えるでしょう。